毎年くる日本の夏には忘れてはならないことがある、戦争と原爆投下そして終戦。
2016年現在。当時の体験者の方がご存命のうちにこの記事を投稿したいと思い今回とり上げる運びとなりました。
- 8月6日広島原爆の日
- 8月9日長崎原爆の日
- 8月15日終戦記念日
日本が無条件降伏をすることによって、太平洋戦争に終止符が打たれた日。日本中の人々が多くの悲しみと傷を抱えながらも、「辛く長い戦争がようやく終わった……」と迎え入れた暑い夏の出来事でした。
その終戦の直前に、2つの恐ろしい原子爆弾が広島と長崎に落とされました。毎年、慰霊者を弔うため、そして世界平和を新たに誓うために行われる平和記念式典の様子が毎年メディアで放送されています。
当時の記録をもとに記載するのでその方略と人の心情を一人でも多くの方に覚えておいてほしい。
1.《被曝体験》ヒロシマ・ナガサキの原爆について
1941年の12月、日本がハワイの真珠湾を攻撃したことがきっかけに勃発した太平洋戦争。1945年8月6日、広島に世界最初の原爆が落とされ、同年8月9日には、続いて長崎へ2つ目の原爆が落とされて、日本は8月15日に無条件降伏をしました。
広島に落とされた原爆はリトルボーイ、長崎に落とされた原爆はファットマンと名づけられていました。1発の爆弾が落下傘によって落とされ、広島と長崎は、大きなキノコ雲を立ち上らせ、地獄の光景へと突き落とされたのです。
原爆のエネルギーは凄まじく、考えられない犠牲をだしました。
長崎での被爆体験 語り手:西本治子様
7歳の時に長崎の爆心地から3.8キロの地点で被爆。原爆投下時とその後についてのお話。(平成26年10月 三鷹市役所にて収録) 語り手:西本治子様
▼長崎での被爆体験 ~7歳で被爆して~
広島での被爆体験 出島艶子様
18歳の時に広島の爆心地から600メートルの地点で被爆。被爆当時の状況とその後についてのお話。(平成25年10月 ご自宅にて収録)
語り手:出島艶子様
▼広島での被爆体験「父と私の最後の会話」
広島で被害した 越智晴子さま
越智晴子さん(社団法人北海道被爆者協会会長)
被爆時年齢22歳/被爆場所 広島市千田町一丁目(現在の広島市中区千田町一丁目)/爆心地からの距離1.7km
▼被爆体験 – 広島で被害した越智晴子さんにお話を聞きました
2.人々の復興動力になった2つの出来事
根付いた夾竹桃(きょうちくとう)
放射能の影響で、広島には今後75年の間は草木1本も生えないだろう、と言われていました。しかし、1本の夾竹桃(きょうちくとう)が大地に根付き、花を咲かせたことで、人々に生きていく希望を与えたのです。ちなみにこのことから、夾竹桃(きょうちくとう)は広島市指定の花となりました。
▼夾竹桃(きょうちくとう)
人々に希望を与えた生きたシンボル、それはどんなに嬉しく、そして傷ついた人達の心を慰め、勇気付けられたと当時記録が残っています。
立ち入り禁止にならなかった
被曝翌日午後、市の本通りから爆心地付近の写真です。人影もなく当方には(原爆ドーム)広島県産業奨励館がみえます。
出典:なお爺の独り言
広島・長崎の投下後の土地は実は立ち入り禁止になっていない。当時は放射能に対する知識も測定装置もなく、終戦の混乱の中で火事が収まると焼け跡を片づけて、すぐに人が住みはじめてしまったのです。
現在の良識から考えればあり得ないことだが、線量測定や除染も行っていない。現代では許されることではないが、人々がその土地に住んでくれたことでかなり復興は早まったと考えられます。
毎年から広島と長崎ではそれぞれ8月6日と9日に、平和式典が行われつづけています。原爆ドームは当時広島県産業奨励館でしたが、現在は世界遺産に登録されており、修学旅行や海外からも訪れる人がいます。中には、原爆の凄惨さ惨禍を現代に伝えている資料館になっています、広島を訪れた際は是非足を運んで欲しいです。
3.原爆を追い求めたジャーナリスト
山端 庸介(やまはた ようすけ、1917年8月6日 – 1966年4月18日)
日本の写真家、従軍カメラマンで長崎市への原子爆弾投下直後の1945年8月10日に市内へ入り、被害の状況を撮影しました。爆心地を通り道ノ尾駅までの約6kmの間の状況をそのカメラに収めました。参考資料———山端庸介撮影の足取り
フォトジャーナリズムを中心としたアメリカのグラフ雑誌『LIFE』9月29日号(原爆特集号)に写真が掲載され、それがアメリカ初の被爆者写真の公開となりました。
終戦後、写真の一部が『毎日新聞』など掲載されるが、9月以降はGHQによるプレスコードにより、原爆に関するすべての報道が規制されました。山端自身は1966年4月18日、十二指腸癌により死去。その後、1995年に原爆記録写真の修復作業が開始。アメリカで展覧会「ナガサキ・ジャーニィー」が開催されました。
4.日本人が知らない核保有国
現在の核兵器保有国 |
|
核開発の濃厚な国 |
|
核共有国 |
|
過去核兵器保有国 |
|
過去核兵器開発国 |
|
日本は過去、核開発計画を研究レベルで公表し廃棄しました。日本政府は世界唯一の被爆国として原子力の平和利用に徹し、核軍縮・不拡散外交として包括的核実験禁止条約 (CTBT) を批准しています。
5.なぜ?広島・長崎に投下された理由
広島
「マンハッタン計画」と称して投下3週間前に新兵器を日本に対して使用することが決まりました。
当時米軍の、グローブス将軍は、原爆投下には不適と反対したが、スチームソン陸軍長官は「これは政治的判断である」と言明し、米陸軍航空部隊司令長官のヘンリー・H・アーノルドが広島・長崎を目標地に進言したと記録が残っています。
- 広島に連合国軍の捕虜収容所がないと思われていたため
- 日本の首都圏は米軍で壊滅していたが広島は被害を受けていなかったため
- 山に囲まれた地形が、原爆の破壊力を探るのに適していたため
- 広島には軍隊、軍事施設、軍需工場が集中しており、それらが破壊されずに残っていたため
- 8月6日の天気が晴れだったため
長崎
朝から警戒警報が出ており、一旦は避難した市民も多かったが、午前10時過ぎには解除されたため、大半の労働者・徴用工・女子挺身隊、は、軍需工場の作業に戻っていました。
- 戦艦「大和」と同型の「武蔵」を造った三菱造船所があったため
- ハワイの真珠湾攻撃時に使用された「魚雷」を造った三菱兵器製作所があったため
6.まとめ
現在も広島・長崎の凄惨な出来事を体験した方がご存命です。歴史は勝者が書き示すものであることがおおいことから、望まなくとも被験者となってしまった方々の声を多くの人に覚えておいてもらいたい。