【今さら聞けない忍者とは】忍者の武器・派閥・松尾芭蕉は忍者だった説

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『忍者』とは、志能便(しのび)とも呼ばれ、影のように息をすまし相手の三歩先を読み行動する最強の黒子。

表舞台で名を挙げた人物と言えば服部半蔵(はっとりはんぞう)、彼は実在か架空の人物か日本の忍者について解説していきます。

1.日本最古の忍者を率いたのは聖徳太子

日本最古の忍者を率いていたと言われているのが、じつは聖徳太子なのです。 聖徳太子と言えば、冠位十二階や十七条憲法を制定したことで有名ですが、朝廷内の動きや内情を秘密裏に探っていたと言われています。

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出典:法隆寺展

その情報を得るために使っていたのが忍者だと言われています。 この時は忍者ではなく、志能便(しのび)、志能備(しのび)と呼ばれていました。

日本最古の忍者|大伴細人(おおとものほそひと)という人物

日本で最初の忍者は『大伴細人』(おおとものほそひと)です。 大伴細人の主が聖徳太子だったと言われています。

忍者は氏族により2つの流派に別れていて伊賀忍者(いがにんじゃ)と甲賀忍者(こうがにんじゃ)です。

  • 服部氏族=伊賀忍者
  • 大伴細人=甲賀忍者

服部氏族とは服部半蔵の血族であり現代でも名が知られている忍者ですよね。最古の忍者は甲賀忍者である大伴細人(おおとものほそひと)。彼は大変優れた忍者で、蘇我氏と対立するほどの強い勢力を持った豪族、大伴氏の出でした。

豪族とは

ある地方に土着し、大きな富や勢力を持つ一族のこと。

聖徳太子が志能備として使っていたのは、大伴細人だけではなく服部氏族の中にもいたそうです。この服部氏族はのちに名をはせた服部半蔵の祖先だと言われています。

2.忍者に必要な能力4選

忍者は現在で言う、スパイ業。 その仕事は人目につかず、ひっそりと活動し敵の情報をいち早く得ること。それによりより優位な戦略や策略の材料となる重要なポスト。

諜報活動や暗殺、敵の内部に潜り込み破壊活動や情報収集を主に、他にも剣術、武術、火術、呪術、薬学、天文学の知恵も必要とされまさに文武両道であることを求められました。忍者の仕事内容をまとめていきます。

剣術

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出典:共柄小刀「不死鳥」・両刃

小刀や小さい日本刀などを主に使い、 その他に手裏剣等の使い手であることは必須。時には農民などに変装している事があったので斧や鎌なども武器として使用する場合も。

武術

侍が使っていた柔術や剣術とあまり変わりはないが、忍者だけが使う技術や武器も存在していたと言われています。 敵を殺すより、その場を逃げるために負傷させる武術を主に使っていました。

薬学

毒や治療薬の他に火薬なども製造。忍者は情報収集のためいろいろな場所へ行く際、薬売りとして変装することが多く、現実的に薬の知識が長けているのと新しい土地へ移動しても怪しまれずに済んでいました。

呪術、天文学

忍者は呪術(まじない)を使い、錯覚を起こさせたり、火薬や煙玉を使った術などで敵を混乱させたり。 天文学においては、その方角などから吉方位や凶方位などを出し、天候を知り戦術に活用したりとパフォーマンス的な要素も含みます。

3.伊賀忍者と甲賀忍者の違い

伊賀流と甲賀流ですが、時代劇やアニメなどで敵対しているように描かれていることが多いのですが、じつはこの二つの流派はお互いに協力関係を築いていたのです。

伊賀忍者
(いがにんじゃ)

甲賀忍者
(こうがにんじゃ)

 

有名人|服部半蔵(はっとりはんぞう)
主人|徳川家康
特徴|忍術や戦闘能力に長けている
地域|伊賀の国
※三重県西部(伊賀市・名張市)

 

 

有名人|日本最古の忍者
主人|お上
特徴|農業や行商人として各地の情報を収集
地域|近江国甲賀
※滋賀県甲賀市

伊賀忍者の特徴

伊賀忍者は服部半蔵によって、徳川家康に仕えていたことが有名で、甲冑を着た服部半蔵の浮世絵が残っています。

伊賀忍者の特徴は忍術や戦闘能力に長けていて戦にはかなり貢献。 伊賀忍者は雇い主とは金銭での契約をしており、それ以上の関係を持たなかったとかなりビジネスライフ。

依頼があれば忍者の派遣をしていましたが、その際、雇い主が敵対していた場合でも双方に忍者を派遣していたことから、『主人に支える』ことへの誇りが信頼度を生んでいたように感じます。現代も戦争はお金が動くことは間違いなく昔から変わらないものだったのですね。

伊賀流の忍者訓練法は独特で、その一つに顔の半分を紙で隠し、その紙を落とさずに一里以上を走りぬくといったものがあります。伊賀忍者の訓練はとても厳しく、幼少の頃からその訓練に耐えてきました。

甲賀忍者の特徴

甲賀忍者は普段、農業や行商人として各地の情報を収集していることが多く、 上から指令が下ると、その地へ行き工作活動をしました。 甲賀忍者は六角氏(日本の氏族の一つ)の傘下に属していましたが、甲賀に関わるすべての事に関して多数決で決めていました。

4.忍者が架空かと言われる理由は伝承方法が口伝だから

今現在存在する忍術伝書の中に『満川集海』『正忍記』『忍秘伝』があり、この3つを三大忍書と言います。

忍者の伝書の多くは江戸時代に書かれたものでがそれ以前は特定の人物に飲み口伝によって伝えられてきました。 それらを伝承、備忘するために活字化されたといわれています。 ですが、口伝された多くの事は秘伝であったため記述としては残っておらず、表舞台に出ないだけで現在も語り継がれているかもしれません。

5.松尾芭蕉に伊賀忍者説が浮上する理由

奥の細道で有名な松尾芭蕉ですが、彼は忍者だったのではないかとされる説があります。

理由①生まれが伊賀国

松尾芭蕉が生まれたのは寛永21年、伊賀国と言われています。

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出典:松尾芭蕉

理由②百姓の身分なのに姓を名乗れた

この当時、姓を名乗れたのは武士や士族と一部の農民だけとされていますが、松尾芭蕉の生家は百姓でしたが、姓を名乗ることを許されていました。

伊賀忍者の上忍や中忍の一部に姓を名乗ることを許された身分の者がいたことから、松尾芭蕉が忍者だったのではないかとの説が出たようです。

理由③他県を行き来できた

有名な『奥の細道』の旅ですが、このころの日本は他県は他国のようはもので県を渡り歩くことはいちいち身分証明が必要だったりとかなり難易度が高かったのですが。松尾芭蕉は難なくクリア、さらには旅の手引きなんて出版してしまうのです。

奥の細道とは?

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出典:奥の細道サイクリング

元禄2年、3月末に弟子の河合曽良を伴い旅に出ました。 江戸を立ち、奥羽・北陸へ向かいます。 北陸路をめぐり、9月に美濃大垣まで旅をしました。 この旅の紀行文が奥の細道です。

普通の身分では到底無理であり、さらには移動距離が通常では考えられないほどの速さだったことから、忍者だったのではと言われています。

理由④身体能力が高い

この旅をしていた時、松尾芭蕉は45歳。 奥の細道の旅は六百里(約2400㎞)で、その移動距離は1日に四里(約16km)から十数里(約40~50km)も歩いたとされています。 その時代、現代のような道があったわけではなく、山や谷を越え、整備されていない道を歩いていました。

そして、この松尾芭蕉こそが服部半蔵だったのではないかとも言われていますが、それを裏付ける文献などは見つかっていません。

6.まとめ

忍者と言えば、黒い服を着て顔を黒い布で隠しており、刀や手裏剣を持った姿を思い浮かべますが、本当の忍者は周りに溶け込んで密かに活動をしていました。 ですが、その身体能力と知識は常人にはないほど優れていました。

現在ではそんな忍者の活動はないとされていますが、世界中でスパイ活動が行われているのも事実です。優秀な能力を持った忍者達。 もしかしたら、私たちの知らない所で忍者はひっそりとその役目を実行しているのかもしれません。

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